FC2ブログ
脳舞台~「高山寺決起」・絶対に真似ちゃいけない自殺マニュアル
takasugi.jpg




伊藤(俊輔)博文は夢にうなされている。
「高杉さん・・・いけんよ。それ言うたら赤禰さんが救われんちゃ・・・」
伊藤の額に汗が浮かぶ。夢は続く。

場所は下関・功山寺。12月14日。こんこんと雪が降り積もっている。
寺の境内で一人の鎧武者が馬を後ろに傲然として座っている。
そこへ伊藤俊輔が「高杉さん!」と呼びながら転ぶように駆け込んでくる。

「俊輔!何しに来たんか!」
「何しに来たんかって・・・やっぱり誰も来とらんのじゃね」
「そうじゃ。長州人は腑抜けばかりっちゃ。決起の祝いの品は貰ったがのう。ふっ!」
「高杉さん。昨日の夜のアレはないっちゃ。あね~な。こと言うたらダメっちゃ」
「ワシが何言うたか?何がダメなんか?」

「やっぱり覚えとらんのじゃね。ベロベロ酔っぱらっちょったもんね」
「何を言うたか。聞いちゃるけぇ。言うてみい!」
「高杉さんが言うたことじゃけぇ。怒らんでくださいよ。
奇兵隊士は赤禰さんの帰りを待ってから行動したほうがええちゅう意見じゃったが。
そこへ高杉さんの暴言じゃ。赤禰は土民の出じゃ。
それに比して高杉家は毛利家代々の家臣じゃちゅうて・・・」
「・・・。そねぇなこと言うたんたか?覚えちょらん」

「高杉さんが一番わかっちょる話っちゃ!
諸隊・奇兵隊は先生(吉田松陰)の草莽崛起の言葉で造られたもんじゃ。
長州人は身分関係なく武器を手に取って戦え。高杉さんは自分でそれをひっくり返したんよ!
ワシは先生からあんまり可愛がってもらえんかったけど。志は受け継いだぁ思うちょる」

「赤禰の件は後で謝罪する。が。今は俗論党(高杉命名・実は常識派)を倒す最後の機会。
はぁもう。あねぇこねぇ言うちょる場合じゃないんちゃっ!
この時期を逸して長州の生き残る(高杉命名・正義党・実は非常識派)道はないんじゃ!
ヤツラの息の根を止めん限り長州はまとまらん!
幕府に我が藩の軍艦を渡すなど以ての外じゃ。何が幕府に絶対恭順じゃ!バカタレが!」

高杉は眼下の雪を蹴り上げる。砕け散った雪は俊輔の肩に降りかかる。

「おう。俊輔。お前の諸隊は力士隊じゃったのう。何人おるんか?」
「30ばかりじゃけど。そねぇな数。どうにもならんっちゃ!相手は3000の藩士っちゃ!」
「3000が何じゃ。そねぇなこと恐れちょったら大業はならん!」
「高杉さんは滅茶苦茶じゃぁ!わざわざ殺されるために隊士は遣れんっちゃ」

高杉は俊輔を睨む。俊輔も高杉を睨む。

「あ。そう言えば。石川の隊は50程おるか・・・」

俊輔はふと石川のことを思い出した。
ふだん懇意にしている石川小五郎率いる遊撃隊には50ばかりいる。
連絡をすれば直ぐに駆けつけてくれるだろう。
30と50足して80か。それを高杉に伝える。
(やっぱりワシは高杉さんと同じ馬鹿なんじゃろか?と思いながら)

「おう。それだけおればええ。戦にはなる!俊輔!急いで石川を連れて来い!」

「はい!」俊輔の足は速い。脱兎のごとく功山寺の階段を下った。
「三千世界の烏を殺し。ぬしと朝寝がしてみたい♪っと。あやかりたいもんちゃっ!」
高杉の都都逸を口にしたものの俊輔の顔は強張り青白い・・・

朝の眩しい光が伊藤の瞼を開ける。
「近頃。高杉さんの夢ばかり見ちょるのう。高杉さん。あんまり早よう呼ばんでくださいよ」
伊藤はやおら布団から起き上がる。


-------------------------------------------------


この話の前後を要約します。長州は幕軍の第一次長州征伐に敗戦(前年には英米仏蘭連合軍と戦い破れています)つまりボロボロの状態です。その頃。藩内は二つの意見に分かれていましたが。幕府に破れたことで幕府恭順が藩内意見の主流となります。この頃各藩で軍艦を持つように幕府から通達されており長州も持っていました。俗論党(高杉命名・常識派)は軍艦を幕府に渡し忠誠の証とすることを決定します。高杉ら正義党がそれを阻止すべく立ち上がったのが今回の「脳舞台」でのことです。後日。山縣狂介率いる奇兵隊が加わり。高杉軍は200あまりになります。

この戦い。大掴みにすると最初から決まっていたようなものです。俗論党の多くは高杉軍に賛同していたのです。なので藩の軍艦・食料・金銭は簡単に手に入り。結局。正義党の勝利となります。つまり数ではなく。天・時・人を得た時に物事は進んでいくのです。こうして藩内統一に成功した長州は第二次長州征伐を迎えることになります。薩長連合などまだまだ先の話です。尚。日時・人数など詳細の正誤はお許しください。我が脳内は「だいたい把握」できればOKの立場ですw

いやはや。方言使いましたが。これ「捏造」です^^; 難しいちゅ~ねん!ワタシ・肥後天草系長州人。当時の萩や山口で使われていた方言がわかるはずありませ~んw だいたいですね。毛利氏は中國十ヶ国を持ち広島・安岐の国を根拠にしておりました。それが関ケ原の後に山口に押し込められて来たわけです。つまり広島弁と山口弁がごちゃごちゃになったと思われます。それに山口市は大内義隆が権力を握っていた頃。京の文化を取り入れ。西京と呼ばれるほど栄えていました。当然。京文化に親しんだ大内氏の生き残りが多くおり毛利武士など田舎者とする人達もいました。ワタシは「異邦人」です。全然関係ないところで生まれていますので。真から方言を知りません。話し言葉など「標準語・博多弁・広島弁・鹿児島弁・関西弁・山口某所弁」ごちゃまぜです。

※赤禰武人=第三代奇兵隊総監(幼い頃。赤禰家へ養子縁組・武士の立場を得ていた)高杉と共に英国公使館焼き討ちに関わる。馬関戦争(対・英米仏蘭連合)・第一次長州征伐参加。第二次長州征伐後。高杉との意見の相違もあり。奇兵隊を出て大阪へ。ただし。この間。赤禰の立場は微妙になっており。正義党と俗論党の二重スパイを疑われ。長州へ帰った際に捕縛。問答無用で斬首されている。秀才型・高潔で優しい人柄。総監時代は合議制で作戦を練った。兼ねてより奇兵隊全員を「武士と同格」に扱って欲しいと懇願するが無視されている。松陰門下では高杉の先輩格に当たる。赤禰の名誉が回復されたのは平成に入ってからである。





スポンサーサイト
何故に萩だったのか
 周防長門に押し込められたというなら、文化的にも地理的にも真中は山口ですよね。経済的理由なら下関でも可。なのに何故に萩?土地は狭いは、雪に埋もれるは、裏日本では瀬戸内の宇部などと比べても経済的な優位性も小さかろう。うーん。やっぱり幕府に遠慮して引っ込んだ?
 ときに、私は長州と薩摩のどちらかと言えば長州が好きです。あのぶっ飛び具合はむしろ潔い。ぎりぎりまで幕府に尻尾振って、肝心な時に寝返り、あまつさえ反幕の中心に居座った薩摩は人として如何なものか。うん、如何なものか。
miss.key さん^^
コメントありがとうございます。

英米仏蘭にボロ負け・幕府にボロ負け。
あ~その前にも蛤御門・禁門の変で惨敗。
尚且つ。俗論党が主権を握り。
諸隊はおろか自分が組織した奇兵隊からも見放された高杉。
一人で決起した高杉ですが。
たぶん誰も来なくても藩庁に乗り込んだと思います。
「ここが死に時」と覚悟していたでしょう。

長州は教育熱心で若いヤツを伸び伸び育てる気風があります。
高杉は明倫館を出て江戸・昌平坂学問所に学んでいます。
偏差値の高い教養溢れるヤンキーみたいな男だったかと思います。

薩摩が長州と組んだのは第二次長州征伐で長州が勝ったからです。
そうでないと組むはずもなく武器商人・龍馬さんの出番もなかったでしょう。
まぁ。もっとも両藩とも内密でイギリスへ若者を留学させてますから。
西洋文明の必要性を感じていたのでしょう。まぁ。幕府は幕府でやってますが。

さて。何故毛利氏は萩に城を建てたか?
何度か城・指月城を訪ねたことがあるんですけどね。
特に名城というわけでもないです(堀にはアカミミ亀がw)
海のそば。沿岸地に建てたのはやはり要害地だからでしょう。
三方が崖ですから守り易かったと思われます。

山口には藩庁があります。主な政務はここで行っていたのでしょう。
長門・周防の真ん中ですから利便性がありますね。
下関・長府は城下町でここにも小さな城があったんです。
壇ノ浦を望む沿岸には馬関戦争で使用された5門の砲台(模擬)が拵えてあります。

あ。それとは別にフランス製の大砲(模擬)も置かれています。
これ地元の小説家がフランスを訪れた際に本物を見つけたそうで。
当時。個人で掛け合っても貸してもらえなかったんです。
そこで今の安倍総理の父親である安倍晋太郎外務大臣がフランスに話を付け持ち帰り。
地元の製作所で実物を模り創作したそうです。ちょっとお洒落で素敵です^^)/
プロフィール欄の方ですけど。

アメリカに壊れないものを作れなんて無理な相談でしょう。
あそこはペーパーカルチャーの国ですもん。
ファストフード店などでのナプキンの消費量をごらんください。トイレットペーパーなみに景気よく使います。
皿の上は食べ残しとペーパーの山w(全部平らげるのは下品という認識らしい。だからてんこ盛り料理を残すのが良いらしい)
1枚の服を大事に着るのじゃなく、Tシャツをじゃんじゃん買い替える。
そこへいくと欧州は布ナプキンを使い(全部じゃないけど)、家に長く住み続けるのを誇りとし、古着をオサレに着こなすのがクール。
・・・ま、車は日本車に比べたら壊れるけどw
とにかく、アメリカは壊れたら取り換える思想の国なのでは?
ロシアは寒すぎるうえに闘うDNAの国だから、オサレなんて二の次で戦えなければ車は無意味とでも思っているのではw

生類憐みの令って、あの時代に去勢技術が定着していたら、もうちょっとマシな状況に持っていけたんじゃないかなぁと。
今もおかしな動物愛護団体が似たようなことやらかしてるけどね・・・命あるもの云々言ってるのに、ゴキブリは平気で殺すじゃないか!え?あんたらはマダニにさされても愛の眼で血を吸う様を見守るのか!?←だんだんおかしくなってきたのは陽気のせいです。
もうやめとこう。
とんがりねずみ さん^^
コメントありがとうございます。

USA=ペーパーカルチャー?why?ペッパーカルチャーじゃないの?
日本がペーパーカルチャーなのはわかるけど。
あ。ペーパーカルチャーって別の意味があるのかな?安モノOKとか?
(教えてくれ給え)

壊れたら取り換える。まぁ。それも事と次第だろうけど。
要するに「勿体ない」という思想形態がないってことね。
つまりUSA文化をそのまま受け入れると「勿体ない」がなくなるってわけか。
USA諸君。とんがりさんに言われてるぞ!

Russiaの場合=クルマというより戦車なんだよなぁw
さすがにクルマ作りより戦車作るほうが得意じゃないのかな?
道路のアスファルト化やめて市民が戦車に乗れるようにすればいいのでは?
もちろん大砲がある部分は運転席に改良する。
意外と需要があって軍事オタクには受けるかも?
SUVより全然魅力的・野性的だ。あ。アスファルト考えれば装甲車がいいか。

生類憐みの令・・・生類=命あるもの(人間含む)を大切にしなさい。
というのがそもそもの綱吉の考えの基本。
特に犬は坊さんから宣託を受けたから大事にしようとしたらしい。
それに「忖度」が「忖度」を生み「忖度だらけ」になる。
(それ用のマニュアルをまとめた豆本もある。この場合はこう対応するとかw)
如何にも日本人らしい。結果。「過ぎ」ちゃってダメじゃんになったのね。
綱吉の時代は元禄文化華やかな頃。文化的にも爛熟期にあります。
国としては安定してたのよ(内蔵助だって芸妓と遊んでる。関係ないかw)

少なくとも日本に動物愛護団体は必要ありません。
自分たちで「生類憐みの団体」を作ればいいだけの話です。
(生類憐みの令では屏風を畳む時には。
「羽のある虫」を殺さぬよう団扇で扇いで畳んでいたのです)

なので犬猫の殺処分反対。え?@@;
鶏や牛は病気のため「病気のないヤツ」も大量に殺処分されたのよ。
一般に食わない「犬猫」の命は大切にして。
食われる「鶏・牛」はどうでもいいのか?
どこかでワタシが引き取るから鶏・牛殺すの止めて。なんて言ったヤツいる?

何事も行き過ぎはダメなのよ。
コメント投稿
管理者にだけ表示を許可する