アルクカメラ~走る人
走る人


通院途中。大きな川を渡らなければなりません。
その川の河口付近に干潮時のみ姿を現す人影があります。
名付けて「走る人」

おそらく木の根っこかと思われるのですが。
ずいぶん牡蠣殻が付いていて。
本当はなんだか正体がはっきりしないのです。

何でも擬人化する癖のある自分には。
正体がはっきりしなくても。これはこれでおもしろく。
ついつい川底を覗いてしまうのです。

擬人化は子供じみた癖ですけれど。
到底治りそうにありません。
ついつい目=脳がそう見て・考えてしまうのですね。



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武士・父と子の覚書
大石主悦
大石主悦良金・辞世の句


歴史上。記憶に残る四組の父と子がいる。

楠木正成・正行
徳川家康・信康
真田信繁・幸昌
大石内蔵助良雄・主悦良金


楠木正成・正行は南北朝時代。後醍醐天皇に命を捧げた悲運の武将。
正成とその弟・正季は少数で足利尊氏軍と闘い。時ここに至らず。
七生報国の言葉を残し。互いに刺し違えて自害する。
時を経て。南朝方の正行と弟・時行は北朝方との戦に敗れ。父と同じく兄弟刺し違え果てる。
この死に方に関する相似形に不思議な因縁を感じずにはおれない。
楠木親子ほど忠節の二文字が似合う者はおらず。
また悲劇的な死に様は心の琴線に触れる。それは自分だけではないだろう。
正行・享年24歳(推定)


徳川家康は織田信長から嫡男・信康の宿敵・武田家との内通を疑われ。
立場の弱い家康は信長に反すること出来ず。信康切腹の命令を受け入れる。
信康は内通を否定(夫人は武田家出身)するも信長の圧力に抗しきれず切腹。
この時の介錯人・服部半蔵は。主筋を介錯することを悲しむあまり。
刃を向けることができず。検視役が介錯したという。
ただし。この事件には諸説あり。信長の命ではなく家康自身の考えでそうしたとも言われる。
真実ははっきりしないものの。後年。関ケ原の戦いで。次男・秀忠が戦いに遅参した折り。
秀忠を激しく叱責すると同時に「信康が生きておれば」と嘆いたと言われる。
豪勇を謳われ将足るに相応しい器であり。また父親の顔を知らない異母弟・秀康を憐れんで。
家康と対面させる場を作るなど心優しい面も持ち合わせている。
信康・享年21歳。


真田氏(昌幸・信繁)は関ヶ原の戦いの責をとり紀州・九度山にて蟄居生活を送る。
嫡男・幸昌はその九度山にて誕生。母は知勇兼備を謳われた大谷刑部吉継の娘。
蟄居から15年後。真田信繁・幸昌親子は豊臣家の要望を受け「大阪城」に入城。活躍の場を得る。
冬の陣・夏の陣を経て豊臣家壊滅。戦いは秀頼親子の自害で収束する。
信繁は最後の出陣前に幸昌へ城内に残り。秀頼の出馬を要請させるも実現するに至らず。
また秀頼と生死を伴にするよう指示。言わば秀頼に従って死ねと伝えた。
我が子へ死ねという父の想い。それを受け入れる幸昌の想い。両者の想いは深く重い。
幸昌・15歳。


大石内蔵助良雄・主悦良金は元赤穂潘浪士。内蔵助は代々城代家老の家柄で。
嫡男・主悦良金は赤穂事件がなければ家老職を継ぐ身だった。周囲では若年ながら。
父にも勝る才覚を持つと謳われ。例えば堀部・不破ら江戸にいる過激派を説得するために。
父の許しを得て一人江戸へ下り。見事にその役割を果たすなど。強い引率力を持ち合わせていた。
また映像で見ただけだが。父へ宛てた手紙の墨痕に尋常ならぬものを感じた。
太く力強く引かれた線には強固な意志が宿っており。彼の性根を見たような気がした。
討ち入りの際には副将として吉良屋敷裏手門を任せられている。
内蔵助は家老の息子だから副将にしたのではなく。極めて優れた人間性を認めた故だろう。
主悦良金・享年16歳。


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今回の記事は覚書であり。記録の面で多少の誤りがあるかもしれません。
その点についてはご勘弁のほどお願いします。
こうして記事を書いてみると武士の子息ってのも大変だなぁと。思いますね。
常日頃から死を前提にして物事を考え。行動しなければならないからです。

そういう点では一種の宗教的な色合いがあるのかな?と思います。
宗教もまた死を前提にして考え生きることから始まります。あ。
宗教関係者にはそれは違うだろ!なんてお叱りを受けるかもしれませんね。
個人的な考えなので。真実と違っていたら。ごめんなさい^^;

武士の子息は15~6歳で元服し大人の仲間入りを果たし。以降は一人前の武士として扱われます。
そして当人たちも。その期待に応えようとします。武士として生き恥をかかないためです。
二十歳の成人式でバカ騒ぎする若者と比較すると。その余りの落差に愕然・唖然とします。
とまぁ。その成人式にも出なかったワタクシ。どーのこーの言える立場じゃないな^^;