絵の話~渡辺崋山
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鷹見泉石像


病院帰りの途中。懐かしの我が愛する画材店に寄った。
自転車に使用するバッグが退色したので染料が欲しかったのだ。
あいにく頭にあった染料は既に売っておらず残念至極。

代わりに250円也のアクリル系絵具を購入。

さてたったひとりの後輩であるMくんが作業している。
その傍には「渡辺崋山」らしき細長い絵が何枚か重ねられている。
それと知ったのは薄い緑が鮮やかな人物像「鷹見泉石」があったからで。
凛々しい顔立ちと黒い烏帽子・脇差が画面をキュッと締めている。

画号を見るとやはり「崋山筆」となっている。

Mくん「ああ。それ本から切り取ったみたいですよ」
他にも何枚か拝見。筆使いの巧みさに加え。線に勢い・切れがある。
なにより描かれた線がまことに美しい。

「崋山ってどんな人ですか?」

Mくんから急に質問を受けた。
一瞬。うっ!となったが(だってあんまり経歴知らないしw)
「え~っと。本来絵描きじゃなくて政治家。もちろん武士だけどね」
と答えるのが精いっぱい(汗

端的に崋山の経歴を示すとこうなる。

幕末初期の頃の人物で江戸詰めの田原藩士(のち開国論者)
幼い時から絵の上手さで知られ自らも画人になることを夢見た。
家が極貧のため絵を描き家計の助けとし。やがて画人として有名になる。
また学問にも優れており著名な学問所を訪ね勉学に励みやがて家老にまで出世する。

家老職に付き高野長英らなどともにジャガイモ・ソバの飢饉対策を提案。
また開国論者であったが幕府の取り締まり厳しく海防論者を装った。
時代が激しく動き「蛮社の獄」により鳥居耀蔵に疑惑を持たれ自宅蟄居の身となる。

崋山の弟子は貧窮した崋山の家計を支えるために。
画会を開き金策に走ったが。それを幕府側に知られたため。
崋山は田原藩に迷惑が及ぶのを恐れ自決する。

享年48歳(1841年)。明治(1865年)に至る24年前のことだった。

崋山は少年時代から藩主に可愛がられている。
頭脳明晰でもあり成長するにつれ主な役職につく。
が。同時に崋山は「画人」に成りたいという願望があった。
才能を持ち合わせ高い技術も修めている。

もし仮に「画人」だけを目指しておれば自決することなどなかったろう。

しかし。彼はあくまで武士であり優秀な官僚だった。
どちらか片方だけの人生など送れなかった。
あくまで「画人」と「武士」であり続けることが彼の宿命だったのだ。




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絵の話~明治の青春・青木繁
青木繁は明治期を代表する画家の一人だ。
19世紀イギリス絵画(ラファエル前派)などの影響を受けつつ。
日本神話を題材にしたロマン主義的傾向の強い作品を残した。

代表作は「海の幸」及び「わだつみのいろこの宮」
両作品はかつて久留米市・石橋美術館で見る機会があった。
青木繁の持つ豊かな想像力と感受性が見事に結実しており。
明治期の洋画を語る上で欠かせない存在だ。

まず「海の幸」(1904年・明治37年・美術学校卒業後)を取り上げてみよう。
海の幸


この作品で特徴的なのは。画面の両サイドを簡略化し。
見る側の視線を中央に集めていることだ。
(簡略化=未完という説もあるが。作品としては完成している)

その中央に「青木繁」と思われる横顔の人物と。
後ろに青木の愛人「福田タネ」らしき人物が描かれている。
両人とも顔を白っぽく塗られている。
特にタネの鑑賞する側を見つめるような瞳が強く印象に残る。

青木の親友・坂本繁二郎によれば。
千葉県・房総半島の海へ遊びに行ったことがヒントになっているらしく。
当地の風情が彼の鋭い感受性に大いに刺激を与えたのだと思われる。
若い時期の感受性は時として巨大な爆発力を産むものだ。
「海の幸」はそんな若さ=原初的なEnergyに満ちている作品だ。

次に「わだつみのいろこの宮」(1907年・明治40年)
わだつみのいろこの宮


「海の幸」が荒々しい若さから産まれたものだとすれば。
「わだつみのいろこの宮」はそこから一歩先に進んだ作品だろう。
ある種の神秘性が全体に漂よっており。荘厳なImageを演出している。

小さな画像では十分に伝わらず。分かりづらく申訳ないのだが。
実物を見ると左側に立つ女官の(神を見上げる)横顔が大変に魅力的で。
「作品を永遠にしている大事な要素ではないか?」と感じている。
(あくまで個人的な見解です。好きなタイプの女性なのかもw)

彼にとっては。この作品を描いた時期が最高潮だったようで。
その後は生活の苦しさもあり。急速に画力の衰えを見せる。
自画像や福田タネ・子息(福田蘭童・作曲家)を描いた佳品もあるが。
何せ肺結核で逝った28年の短い生涯だ。傑作と呼べるレベルの作品は思うほど多くなく。
晩年の作品は画力の衰えが垣間見える。健康状態と精神状態の悪化が原因だろう。

もし長生きし描き続けていたら(新しい境地を開けたとしたら)
どのような画家になっていただろう?と考えさせるが。
彼はやはり早世の画家以外には成り得なかったのかもしれない。

絵画・詩(短歌)の才はあるが。生活を支える基盤を持たず。
そのため故郷の家族と不和になり。やがて家族から離れ。
絵を描きながら九州各地を放浪。その果てに病没と。まさに尻すぼみの人生。
人生の最高潮が若い時期に訪れた典型とでもいうような生涯だ。

しかし彼はそうとしか生きられなかった。他に生きようがなかったのだ。

近代日本の夜明け=明治という時代の中で生き。
駆け足で走り去った青木繁。
彼の青春・人生のすべては絵画に捧げられた。


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青木繁~福岡県久留米市生まれ・明治15年~明治44年。享年28歳。
東京美術学校・西洋画科選科・黒田清輝に師事。
「海の幸」「わだつみのいろこの宮」は重要文化財指定。
両作品は久留米市・石橋美術館所蔵となっている。


絵の話~絵画が絵画であるために・ジョルジュ・モランディ
もらんディ
ジョルジュ・モランディ


ワタクシの描いてきたものはすべて独学です。
もちろん誰もがそうであるようにモノマネから入っています。
少年・少女雑誌のマンガから影響を受けたし。
様々な画家からインスピレーションをもらっています。

でも最初の頃は。
「絵画にするための術」が全くわかっておらず。
ただ何んとなく描いていただけだったのです。

「こうすれば絵画が成立する」という核心に。
初めて触れたのは。
他でもない自分の描くラクガキの中にありました。

ある人から「絵を描くのは鉛筆と紙があればいい」
という意見をもらい。それを参考にして。
わら半紙1000枚を用意しラクガキをしてみたのです。

モノを見ての写生ではなく。
あくまでも自分の中から湧き出る妄想を描いたのです。
しかしどう描いても「絵になっていない」と感じるんです。

線の組み方がバラバラで統一感がまったくなく。
土台がしっかりしていない。
それこそ「ただのラクガキ」に過ぎませんでした。

自分の求めるモノはこうじゃない。何かが違う。
わかっているだけに悔しかったものです。
何枚も何枚も描いては破る日々が続きました。

そうするうちに。
「アレ?こうすれば絵になるんじゃないか?」
という「感覚」が閃いたのです。

それは「線のリズムそして量」でした。

これらが重なりあって初めて「絵になる」と知ったのです。
このことに気付いた頃の絵は今でも大事にしていて。
弱いわら半紙ですから裏打ちをして額にいれています。

そんな頃。知ったのが「ジョルジュ・モランディ」でした。

元美術教師・Nさんからモランディの画集を見せてもらったのです。
そこに描かれているのは花瓶・コップ・煉瓦など非常に限定されたモチーフで。
それらをがっちりと組み立てて(構成して)あるのです。

その時。「自分のやろうとしていることと同じだ」と感じたのです。
(天と地ほどの違いはあるんですが^^;)

もちろん世界的にも評価され。独特の世界観を持つ画家ですし。
「自分と同じだ!」と言ったところで笑われるだけですが。
自分のラクガキを自分なりに再評価できたのはとてもうれしいことでした。

そういうこともあって。
ジョルジュ・モランディは自分にとって「先生」だと思っています。
何より絵画の原点を思い起こしてくれる画家なのです。


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ジョルジュ・モランディ(1890-1964)

20世紀イタリア美術史において最も重要視される画家のひとりである。
ボローニャの自宅のアトリエで壜や壺を描き続け「孤高の芸術家」と呼ばれた。

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ポットとアヒル・waravino

モランディと比べるな!!ww

この頃の線は自由奔放で今でも好きな線です。
それが描いているうちにガチガチに固定化してしまい。
そんな自分に絶望して。
わら半紙に描かなくなってしまったのです。


絵の話~藤田嗣治
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初めて藤田嗣治の作品を目にしたのは。
下関にある「市立下関美術館」だった。
どのような主旨の展示内容だったか。
細かい記憶はない。

あの日。

美術館に行ったのは藤田の作品が目的ではなかった。
知り合いの画家が個展をするというので。
言わばそのついでに見たようなものだったし。
そもそも藤田の展示会があるなんて思いもしなかった。

ようするに偶然だったのだ。

当時新進画家だった彼の作品は。
1階の展示場に並べられていた。
スケールの大きな画風で。
中近東辺りの人物(群像)がダイナミックに描いてある。
下関は画家の地元でもあり。
自分もまた好きな画家の一人だった。

ひとしきり見て。

藤田嗣治の作品が。
2階に展示されているのを知り上がってみた。
入り口辺りに掛け軸が掛かっている。
藤田の「魚屋の主」を描いた作品だ。

藤田は元々日本画家だから。
水墨画があっても可笑しくない。

その絵は前掛けをした魚屋の姿を正面から描いてあり。
怒ったような顔で何かを睨みつけている。
それを形作るのは一目で藤田だとわかる独特な線と陰。

画面から緊張感がビシビシ伝わってくる。

さて部屋の中へ足を踏み入れると。
F100号サイズの裸婦像が3~4枚掛けられている。
その時の印象はかなり強烈だった。

「静かだが圧倒的な迫力がある」そう思った。

これが所謂「ホンモノ」というものなのだろう。
マヤカシ・ゴマカシ・ハッタリが微塵も感じられない。
思わず溜息がもれた。

これまで藤田の絵は美術雑誌などで見ているが。
もっと軽い感じを想像していた。
しかし眼前にある絵は輝くような乳白色のマチェールとともに。
無言の迫力を放っている。

有無を言わせない圧倒的な技量。
異邦人である藤田が。
フランスで確たる地位を築けたのも納得できる。

作品群を眺め終わり2階から1階へ降りた。
するとどうだろう。
突然。不思議な感覚が自分を襲った。

新進画家の作品が。
「マヤカシ・ゴマカシ・ハッタリ」の。
塊のように見えたのだ。

その画家にすれば至極迷惑だったろう。

藤田は様々な画家が活躍した当時のパリでも。
抜群の人気を博した人物だ。
「世界のフジタ」と比べられては誰しも堪らない。

(目は正直で残酷だ)

以来。藤田嗣治は特別な画家として。
自分の心に住み始めることになった。



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藤田嗣治覚書

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フランス・エコール・ド・パリの代表的画家のひとり。
白磁のような美しい画肌に描かれた裸婦・猫などで人気を博す。
戦時中。日本に戻り戦争画を描く。
戦後パリに再び渡りフランス国籍を取得。キリスト教に帰依し。
レオナール・フジタと改名する。
パブロ・ピカソとは終生変わらぬ友情を温めたと伝えられる。




絵の話~Vincent van Goghについてのet cetera
ゴッホ




「ゴッホの作品を好きか?」と尋ねられると。
素直に答えが出てこない。
彼の作品は鑑賞者の心に響く何かがある。

それは確かなのだが。
それイコール好きというふうには繋がらない。
自分にとって実に困った人だ。

ゴッホの画集・「ゴッホの手紙」などを通し。
彼の人と也はおおよそ理解しているつもりだ。
しかし一種の精神障害を患った人でもあるし。
彼の「内面に在るモノ」に触れるまでには至っていない。

ゴッホの作品は何度か展覧会で見ている。

習作的なモノやツマラナイ作品も多いが。
やはり目を引くのは。
1880年代のアルル時代前後の作品だろう。

代表作である「ひまわり」を始め。
「星月夜」「夜のカフェテラス」「自画像」「糸杉」など。
彼の名作はここら辺りの時期に集中している。

ある展覧会で「自画像(冒頭の画像)」を見たことがある。

これは凄かった。実寸は1m×80cmぐらいなのだが。
圧倒的な迫力があり。訴求力が強いためか。
2倍にも3倍にも膨れ上がって見えた(感じた)ものだ。

そこに在ったのは。
ゴッホ自身の嘘のない掛け値なしのハッタリなしの。
魂そのものだったように思う。

彼は元々ある教会の熱心な伝道師として働いていた。
そしてその過剰なまでの熱心さが仇となって。
自己を追い詰める形になり。伝道師を辞めている。

その後。絵画に目覚めることになるのだが。
人格はそうそう変わるものではない。
だから絵画の制作に関してもそういう一面が顔を出している。

小利巧に走らず・呆れるほどの情熱を持ち。
伝道師時代のように熱心に気真面目に制作している。
しかし余りにも入れ込み過ぎると。

その先に待っているのは。激しさ・厳しさと同時に。
或る種の狂気・純粋さ故の怖さだ。
(自画像には確かに狂気が宿っていた)

こうして書いてみると。
自分が何故。ゴッホの好き嫌いをはっきり言えないのか。
なんとなくわかった気がする。

棟方志功は「わだばゴッホになる」と言い。
彼の情熱的な絵画とその姿勢に憧れたようだが。
自分はそこに反応していない。

蒸留水のような~とでも言うべきか。
「純粋な絵画」がそこにあり。
自分はその純粋さに反応しているのだと思う。

だから好き嫌いの一言では片付かないのだろう。