閑話休題・コンビニにて
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コンビニ・7-11へ行く。扉に「台湾地震・義捐金のお願い」と書かれた大きな紙が貼られている。私は寄付はしない。寄付の使い方が正しく行われているか疑問が多いからだ。つまり信用していないのだ。そんなワタシが寄付をしようとしたのは台湾の件だったからだ。で。店内に入ると目ぼしい箱がない。そこでスタッフに尋ねる。「ここですよ」中年女性が示したのは。いつも置いてあるつり銭用の寄付金箱。目立たないはずだ。「ちゃんと届きますかね?」「はい。もちろんです」「お知り合いがおられるんですか?」「いいえ。台湾にはお世話になったからです」「え?何か台湾がしてくれたんですか?」そこで(ぬぬぬ!となり)「東北大震災の際にたくさんの義捐金を戴いているじゃないですか!」と少々声高に言った。この時。ワタシは個人の感情ではなく。一人の日本人としての感情を表したつもりだ。そして義捐金を募っておきながら。まるで他人事のように話すスタッフに呆れたのだ。スタッフはすみません。と謝罪する。別に謝罪要求してないし。そんな事ではない。

こんな日本人を意識した発言をしたのは「イザベラ・ルーシー・バードの日本旅行記」を動画で聴いたばかりだったからかもしれない。この英国人女性は素晴らしい表現力を持っていて。リアルに絵が浮かぶよう書いており。明治初期の風景や日本人の言動・行動・作法・風習など巧みに表現している。まるで「赤毛のアン」のような感受性を持っているかのように。(ただし白人種特有の上から目線はあるのだが。あまり気にならないw)とくに礼儀作法には感心しており。子供の頃から親の教育によって成り立っているのだと紹介している。当時の刺青した男性。やたらに多かったんだ。人力車の車夫とかね。著者自身「傑作と評した刺青」は富士山が噴火している様子を描いたもので。溶岩に飲み込まれていく人々が彫られている。刺青文化は信仰と関係があるのかもしれないな。


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あの時代。日本は民主党政権・カン内閣。台湾は今の蔡英文総統ではなく。彼女と反対の立場をとる馬英九総統(台湾は中国の一部である・外省人)でした。震災後。その彼が「愛は地球を救うみたいな」感じで皆と一緒に黄色いシャツを着て。テレビ番組でセンターに立ち。義捐金を募っていたのです。彼が総統になったことで日台関係がギクシャクしていた頃の話です。まさに。まさかの光景だったのです。なので台湾の義捐金については強い印象を持っているのです。



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閑話休題~心のタカラモノ
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自分にとっての生きる意味を発見し。
それを得るために努力し達成することは。
「心のタカラモノ」を授かることに繋がる。

それはどんなに叩かれようが。
けして壊れることのない心の強さとなって。
老いても尚大切な誇りとなるだろう。




閑話休題~夏便り
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ワタシは世間一般から見ればつくづく親不孝者だ。
もう彼是20年ほど墓参りをしていない。
今年も行かないだろうし。やはり来年も行かないだろう。

それには理由があって。何故なら両親ともに極楽往生。
すでに魂は救われていると確信しているからで。
然るに何故墓参りが必要なのかさっぱり理解できないのだ。

だから形だけの墓参りは必要なく。
自宅にある両親の遺影を見ているだけで良い。
両親を思い出すことで心が和む。
(親を思う・慕う心だけで十分供養になっている)

さて。墓参りと言えば。
山口市内にある「中原中也」の墓を尋ねたことがある。
それはやはり暑い夏のことだったように思う。

意外だが「中原中也」と書かれた墓はなく。
「中原家累代の墓」となっており。遺骨はその中に収められている。
行った当時の墓のまわりは草ぼうぼうの畑だった。

不思議なことに墓前にはお賽銭のつもりか?
数十枚の10円玉・5円玉・1円玉が供えてあって。
今でも妙に鮮烈な記憶として残っている。
(他意はなく。いかにも日本人らしい気持ちの現れだろう)

~中原中也・死別の翌日~

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云ひたげな瞳を床ゆかにさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

さて、今日はよいお天気です。
街の片側は翳かげり、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然ばうぜんとして、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。





閑話休題・なぜ「。」だけなのか?
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この事を書くのはおそらく3回目です。
自分の文章は「、」を使用せず「。」のみで書いています。
(つまり文章についての言い訳w)

それはたぶん「、」に対する偏見で。
個人的な美意識からきているのだろうと思います。
「、」が美しいものとして感じられないのです。

だって。そりゃ~しょうがね~だろ?「、」はあって当たり前じゃん?
「、への差別じゃね?」「、に対するヘートスピーチだ!」「、の人権が~!」
そういうもんなんだよ。日本語ってのは!!

そうなんです(大賛成!w)

ただね。自分はどういうわけか。
ブログ画面を一枚の絵として捉える癖があるんです。
そういった認識で見てしまうんです。

もちろんそれをワザと崩したり。
都合上。そうなっていないものが多々ありますけれども。
基本的にそんなふうに「眺めている」んです。

そして。

「、」があることが面倒くさい。
「、」を除くことで余計な神経を使わずに済む。
まぁ~なんて都合がいいんでしょうw

こんな考えに至ったのは或るブログがヒントになっており。
詩的な文章を書くその人は「、」「。」一切なし。
それで全体的に美しい文章を成り立たせていました。

そうかそうか!そういう手があったのか!

それじゃ~「。」だけの文章があってもいいんじゃね?
ということで早速実行。書くことがずいぶん楽になりました。
表現したいものがスラスラ書けるようになりました。
(今はスラスラが怪しい段階w)

自分の文章が美しいとは思いません。ただ楽なんです。

それじゃ。ついでに「。」もやめたら?
ところがどっこい。「。」は必要なのですよ。
(ええ?@@;)

何度か実験してみたのですが「。」なしでは。
影響を受けた文章のようにはいかず納得できませんでした。
ただふわふわとして締まりがなくなってしまうんです。

これが感受性の違いというものなのでしょうね。





冬休み継続中・閑話休題~雲
羊雲
羊雲~waravino・1980





雲のように形に囚われず。
生きることができたら。
どんなにいいだろう。

ある時はシュークリーム。
またある時は像のようになるんだ。
変幻自在。
どんなに強い風が吹いても。
やんわりかわすだけ。

雲はすごいねぇ。

でもボクには。
人として与えられた形がある。
だから例え。
雲になることを望んだとしても。
それは無理だよね。

やがて形がなくなる日まで。
ボクは形の中で。
形を守って生きて行く。

それがボクの存在。
それでも。
捨てたものではないんだよ。

神様は何でも心得ているからね。

不自由なボクに。
見えない翼を与えているんだよ。
「想像力」という翼。

ボクはそれを使って。
囚われない世界へ。
行くことができるんだ。