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漫画家・手塚治虫氏の矛盾~「白黒TV・鉄腕アトムの最終回」
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私は、暗い時代といわれた昭和初期のなかでも、実に恵まれた環境で子ども時代をすごせたと思っています。しかしそれも、青春期には、空襲と窮乏生活によってほとんど失ってしまいました。父は戦争にとられるし、勉強はできず、腹をすかせ、大勢の友人を失いました。空襲に襲われて周囲が火と死体の山となったとき、絶望して、もう世界は終末だと思ったものです。だから戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の灯(ひ)がパッとついたとき、私は思わずバンザイをし、涙をこぼしました。これは事実です。心の底からうれしかった。平和の幸福を満喫し、生きていてよかったと思いました。これは、当時の日本人のほとんどの感慨だと思います。

もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器なんか持つまい、孫子(まごこ)の代までこの体験を伝えよう。あの日、あの時代、生き延びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです。ことに家や家族を失い、また戦争孤児になった子どもたちは、とりわけそう誓ったはずです。 それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府が、きな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然おとながそれを阻止しなければならないと同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間にはぐくんでやらなければならないと思うのです。

それは結局、先に述べたように、子どもに生きるということの喜びと、大切さ、そして生命の尊厳、これを教えるほかないと思うのです。人命だけでなく生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るんだという信念を子どもにうえつける教育、そして子どもの文化はそのうえに成り立つものでなければならない。けっして反戦だの平和だのの政治的のみのお題目では、子どもはついてこない。率先して、生命の尊厳から教えていくという姿勢が大事なのではないでしょうか。
手塚治虫(参照・wiki・1986年・未来人へのメッセージ)


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手塚治虫氏は昭和から平成に入る頃に亡くなっています。
ボクは小学生の頃に地元デパートで手塚氏を遠くから拝見したことがあります。
岡部冬彦など4~5人の漫画家たちとサイン会をしておられたのです。

ボクラはサインを貰いに行ったのですが。
サインは抽選ということで・それを知らなかったボクラはサインを貰えませんでした。
その時の手塚氏の顔付は今でもはっきり覚えています。

ベレー帽に度の強そうな丸い黒縁メガネ・そして大きな赤い鼻。
その才能・頭脳明晰さが顔に出ておられ。
他の漫画家たちとは一線を期すような風貌をされていました。
最もボクが手塚氏のファンだったからそう見えたのかもしれません。

最近・公式期間限定で手塚作品の動画配信があり。
アニメーション「鉄腕アトム」の「最終回・1966年12/31」を観る機会を得ました。
筋書きは簡単です・太陽が軌道を変え地球に近づき。
地球の危機が訪れるという設定です。

物語の終わりはアトムが太陽の軌道を変えるため。
ロケットを抱えて太陽へ投げ込むのです。
ところがロケットが故障したため機能せず。
悟ったアトムはロケットと共に自ら太陽に向かって飛び込んで行くのです。

家族に別れを告げながら・地球を救うために飛び込むのです。

この時・ボクは「神風(しんぷう)特別攻撃隊」を頭に描いてしまうのです。
彼らもまた一日でも一時間でも家族が安らかな時間を過ごせるよう戦に臨んだからです。
彼らの行動とアトムの違いはどこにあるのでしょう?ボクはその違いがわかりません。
結局アトムは地球を救うという「大義のために自己犠牲」を強いたのです。

アトムの太陽への突撃は良くて・戦争における神風(しんぷう)特別攻撃隊は悪いのでしょうか?

その後も手塚氏はアトムを生き返らせ「原子炉とは関係ない」と言いながらアトムを描きます。
原動力は原子炉だったはずなのに・様々な過程を経て今では有耶無耶になっています。
ボクの見識では「原子力の平和利用」を目指して・手塚氏は鉄腕アトムを描かれたはずなのです。
ところが時代が変わっていくにつれ・アトムに不都合が生じるのです。

1986年(S61)・旧ソ連に置いて「チェルノブイリ原子力発電所事故」が発生。
(発生した場所は今でも立ち入り禁止地区)
手塚氏の思い描いていた「原子力の平和利用」に決定的亀裂が入った瞬間です。
(当時・手塚氏は健在で・この件についてどのような気持ちを抱かれたでしょうか)

手塚氏は晩年「丸が思う様に描けなくなった」と言われていたようです。
漫画の神様・手塚治虫・享年60歳。
(この記事は主観であり・けして手塚治虫氏を貶めるものではありません)





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足跡
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ある人がある晩夢をみました。

彼はJesusChristとともに川に沿って歩いていました。




空に人生の一場面一場面が映りました。

それぞれの場面に彼は二組の足跡が残っているのに気が付きました。

一組は自分ので他の一組はJesus様のものでした。




彼の人生の最後の場面が目の前に映った時。

砂の上の足跡を振り返ってみました。

そして彼は人生の中で何度か一組の足跡しか見つけることができませんでした。

人生の中で一番辛くて悲しい時に足跡は一組しかなかったのです。




彼はJesus様に尋ねてみました。

Jesus様。わたしがあなたに従うことを決心した時。

あなたはわたしとともにずっと歩いてくださると約束してくれました。

でも人生の中で一番苦しかった時。

わたしがあなたを必要としていた時に足跡は一組しかありません。

あなたはなぜ私とともに歩いてくださらなかったのですか?




Jesus様は答えて言われました。




その一組の足跡はわたしのものです。

おまえが苦しみ試しを受けた時。

わたしは愛するおまえを背負って歩きました。





11歳・或ル少年ノ夏
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東山魁夷・道


皇太子明仁親王(称号継宮つぐのみや)は、健やかに成長されたが、時局はだんだん戦争状態となり、昭和20(1945)年8月15日、学習院初等科6年生で疎開先の奥日光において、父君の玉音放送を聞かれた。
 
その際、当時の東宮大夫兼東宮侍従長穂 積重遠博士(穂積陳重博士長男、62歳)から「終戦詔書」の説明を受けられた少年皇太子(11歳)は、「新日本の建設」と題する次のような作文を書いておられる。
 

「今度の戦で……国民が忠義を尽くして一生懸命に戦ったことは感心なことでした。けれども戦は負けました。……その原因は日本の国力がおとっていたためと、科学の力が及ばなかったためです。……
 
今は日本のどん底です。……これからは……日本人が国体護持の精神を堅く守って一致して働かなければなりません。……
 
それも皆私の双肩にかかっているのです。それには……どんな苦しさにもたえしのんで行けるだけのねばり強さを養い、

もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いて行かなければならないと思います」



(木下道雄侍従次長『側近日誌』文藝春秋所収)
引用・道徳科学研究センター 教授・研究主幹 所 功 


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8月15日ポツダム宣言受諾後も日本軍は戦っています。

不可侵条約を一方的に破ったソ連に対し・「占守島の戦い」がそれに辺ります。
千島列島最北端である占守島での戦いは17日~21日まで続きます。
両者ともに9千近い兵がぶつかりあいますが・日本側の負けに終わります。
(日本側・死者256名・負傷者多数。それに対しソ連側・死者516名・負傷者多数)

戦車部隊・池田末男大佐・突撃の際に放った言葉は有名です。
、「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、
それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」
それに対し全員・拳を突きあげ雄叫びをあげたと言います。

また東南アジア諸国では各国の独立戦争のために戦い。
殉死した日本軍人が多数おられます。
遺骨収集はまだまだ半ばです・「非営利団体JYMA」・「井本勝之氏らと現地の人々」
「他のボランティアの方々」により収集に当たっておられます。
日本各地(特に沖縄)では今でも不発弾処理が陸自・海自により行われています。
戦後処理は以前として終わっていないのです。

現在・世界の情勢を観る限り・不安要素が多々あるのは事実でしょう。
歴史は常に変化し・変容していくものです。それは個人でも同じことです。
今日が幸せであっても明日が幸せとは限りません。

今日一日が幸せでありますように・幸せが毎日続くよう願ってやみません。


          令和元年 未だ不帰 無言の兵士





絵の話~潘麗星・旧日日飯店・外壁図
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撮影・waravino・原画「潘麗星」



この写真は8年前だったか。
ワタシが「想い出館・管理人」(カテゴリー・思い出館徒然記
として10ヵ月間ほど携わた時に撮影した。

筋目が入っているのは原画を拡大した薄い板金を貼ったためか。
劣化が激しくて「勿体ないなぁ」と思いながら撮ったものだ。
(実寸は幅4m×高さ3m)

今の旧日日飯店がどうなっているか知らない。
当時はもう2代目で潰れており。
アーケードの「シャッター街」の一部になっていた。

描かれてある絵に色味はなく・長年日差しに射され故か。
初めから塗っていなかったか・定かではないが。
少なくとも色の跡は見付けられなかった(落款以外)。

故・「潘麗星」氏についてはもう細かく語らないでおこう。
亡くなって久しいこともあるし。生前・何度も会っているが。
自分に影響を与える存在でもなく深い想い出はない。

ただし・戦後の貧しい時期に地元美術家のパトロンになるなど功績は大きい。

女性ながら若い頃は東南アジアを渡り歩いた客家人で。
墨や筆など東洋絵画に造詣が深く。
独特の作品もその中から生まれたスタイルだと思う。

晩年は豪快な顔から・穏やかな顔になり「手かざし」などしておられた。


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なにかと話題の「あいちトリエンナーレ」
今回の件はともかく世論に任せて。
わが市には「ビエンナーレ」なるものがある。

トリエンナーレが3年に1度なら・ビエンナーレは2年に1度。
「野外彫刻国際コンクール」がそれに当たる。
旧称「現代日本彫刻展」。
国内では最も歴史の古い彫刻展である(1963年~)

初期に鉄くずだけで造られた向井良吉「蟻の城
(塗装済み以前は鉄むき出しのため錆だらけ)

そのため様々な街角に彫刻が置かれてある。
幼い頃から彫刻が当り前にあるから。
特別にイタズラされることもなく市役所・図書館・公園・歩道などに。
著名な作品が点々と置かれてある。

歩道の端に柳原義達「カラス」が風を受けながら前に進もうとしている。

ただ彫刻については少し残念な想いもある。
わが市は中小都市だが今のようにドーナッツ現象を起こす前。
市の中心部には巨大な「ヒマラヤ杉」が植えられていた。
その印象的な姿は今も忘れることが出来ない。

人々が木陰で休むことができたことを思い出す時。
同じ場所に建つ現代アート(ステンレス製の大きな鉄アレイのようなもの
ステンレスだけあって周囲の流れを映し出すが・それ以外何も見いだせない。
彫刻は街に・ちっとも溶け合っていないし・むしろない方が良いかと思う。
自分はこの光景に虚しさと悔しさを覚え・取っ払う衝撃に駆られる。
(安全管理は容易いだろうが)

樹木は人々の心を落ち着かせ・和ませる。
巨大なヒマラヤ杉が懐かしい。
彫刻と樹木・植物は違うものだけれど。

神様が創ったモノには敵わない。


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PS
市から案内が来た・市営プールの跡地をどう活かすか?
長年温めていたアイディアを書いて送った。
「新世紀エヴァンゲリオン・庵野秀明記念館」を創れ!
庵野秀明は地元出身であるし。
かつて帰郷した折に実写「式日」を創るなどしている。

彼は地元を大事にしている。
エヴァ作品には・わが市とわかる暗号が仕掛けられてある。
さて・それがどこにあるのか?見当は付かない。
もし庵野氏や関係者の協力が得られれば記念館の実現性は高いと。
密かに考えている次第である。




平家物語~赤間神宮
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平家家紋・蝶紋(揚羽蝶)



安徳天皇をお祀りする赤間神宮は。
山口県・下関市・壇ノ浦前の小高い場所にある。
急な階段を昇った先に見えるのは竜宮城を模した水天門

安徳天皇を抱いた従弐位の尼(安徳天皇の祖母/平時子)
「海の底にも都はございましょう」の伝承をimageしたと思われる。
尚・戦時中に焼失・この建築は戦後に成されたものである。
(奥に幅広い本殿がある)

明治期になり・廃仏希釈のため・阿弥陀寺から赤間宮・そして赤間神宮となった。

「耳なし芳一」は阿弥陀寺と言われた時代の産物である。
この話は小泉八雲「怪談」に書かれた物語だが。
他の地方にも似たような説話があるようだ。
琵琶の名手・芳一の楽曲にさめざめと泣く平家の霊(鬼火たち)。

そこは平家の墓場であり・平家側の最も悲劇的な場所だ。
神宮の奥には「七盛塚」という平家一門衆の墓があり。
(七盛塚=知盛・経盛・有盛・資盛など盛の字が多いため)
先述した従弐位の尼も「平時子」として埋葬されている。

さて・眼前は壇ノ浦である。瀬戸内海の最も西側であり。
関門海橋を過ぎた辺りに彦島という小島がある。
幕末時代・彦島租借問題が起こった際・高杉晋作が話しを有耶無耶にした島である。
(宮本武蔵・佐々木小次郎で有名な船島は別の島)

多数の公達が海に沈んだが「三種の神器」も流された。
後日「鏡と勾玉」は海女たちにより回収されたが。
「草薙剣」だけはとうとう見つからなかった。
この件は源頼朝が初めから厳しく伝達していたもので。
「安徳天皇と三種の神器は必ず守れ」
源義経の行為は侵してはならない過ちだったのである。

後日・義経は頼朝に報告せず後白河法皇から従位を授かり。
その件もまた頼朝の怒りの矛先になったと言われる。
頼朝は源氏に寄る武家政権を考えており。
迂闊に行動した義経は異母弟ながら危険人物となったのである。

最も同じ弟・源範頼も嫌疑を懸けられ流罪となり消息を絶っており。
子供の頼家・実朝も短命に終わった(何れも暗殺・北条家の企みと言われる)
源氏の血は長く持たず・北条執権政治(北条は平氏側)となり。
源氏の血統を持つ足利尊氏が現れるまで・世に出ることはなかった。

「草薙剣」(銅剣)は壇之浦に眠ったままである。
発見されれば数億の価値があるらしい。
ただし1000年近くの時間は剣を海底深く埋もれさせ。
極めて採算の取れない事業となるのだが。

現在の「草薙剣」は伊勢神宮から献上されたものであり・皇居に祀られていると聞く。


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朝・玄関を開けると沢山の虫がいた・小さなアリたち・ダンゴムシ・ナメクジ。
アリたちは何の種類か小さな幼虫を2~3匹で運んでいる。
その廻りを頭の大きなアリがうろついて・まるでガードマンのようだ。
ダンゴムシは小さな実に齧り付き・あくまでも食いたいようだったが。
後から細長いナメクジがやって来てダンゴムシの尻を突く。
そうする内に両者とも煉瓦の間に隠れてしまった。

こんな小さな世界でさえ・毎日争いごとが起こっている。

ましてや・世界では。